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2012年8月〜2015年6月の約3年間「瀬戸内・松山食べ巡りプロジェクト」で、取材撮影をした編集部によるレポートです。
事業期間終了と共に運営変更に伴い、「瀬戸内・松山 しまめぐり」の事業では更新することはありませんので、ご了承いただきますようお願いします。

|文化・歴史

松山城の隠れた情報を探索

実は松山城には、たくさんのおもしろ情報があります。江戸時代に描かれた落書き、柱に似顔絵や縁起の良い天神様・戸がなくなった門など、あまり知られていないとっておき情報が!

侍の似顔絵

江戸時代に下見板の裏面へ墨で描いたと思われる侍の似顔絵が、平成の大改修の際に見つかりました。この板が使われていた場所(大天守の2階)から、焼失後の天守本壇の再建時(1848年~1854年)の落書きだと考えられています。誰の似顔絵なのかは分からないのですが、上から見た侍が紋の付いた「かみしも」を着用していることから、工事の指揮・監督をしていた作事奉行かもしれないと言われています。この下見板は、天守閣内に展示してあります。

松山城

耳の形!?

松山城内にテレビが置いてある部屋のある柱に、耳の形をした窪みがあります。
耳の大きさが同じだったら、幸福が訪れるとか!はたまた将軍の気質があるとか!

松山城

石垣に刻印!?

松山城の石垣には、いろいろな刻印が刻まれています。石工組頭のサインと言われていますが、様々な説があるようです。

松山城

石垣にガラス板!?

松山城の石垣に、ガラス板が貼られているところがあります。このガラス板は、石垣のズレを確認するためのものです。

松山城

徳川家と同紋章

松山城の天守の紋章は、江戸幕府の将軍 徳川家とゆかりのある「丸に三つ葉葵」(三つ葉左葵巴)となっています。
松山城の築城に着手した加藤嘉明は会津藩へ転封となり、次の蒲生忠知により松山城完成となりますが跡継ぎおらず断絶します。久松定勝と徳川家康は義父兄弟で徳川家と深い家柄の松平定行(旧姓久松)が1635年に城主となり、235年間に渡り松山は松平家により統治されてきました。徳川家康が天下人になった際に久松家も松平を名乗り、その時に「三つ葉葵」を引き継いだようです。

松山城

しゃちほこの天丸とまつ姫

松山城のてっぺん(標高160mの位置)に、1対のしゃちほこが松山を見守っています。
一の門から見える南側の「あ」のしゃちが「天丸」、北側の「うん」のしゃちが「まつ姫」という名前のしゃちほこは、2006年6月に市長から「お城の住民票」の交付を受けました。
3〜4代目となる天丸とまつ姫は、2006年春に81年ぶりに新しくなり材質は瓦です。

松山城

松山城大天守の不思議

天守とは城の中心部に設けられ、防衛の要として一大事のときにだけ籠城。生活の場ではなく、床は板張りで天井板もないのが通例です。しかし松山城は、一重・二重・三重とも天井板があり畳の敷ける構造、さらには床の間もしつらえられ襖を入れるための敷居まであります。当時の城主、松平勝善はどのような目的でこのような建て方にしたのか定ではないようです。

松山城

縁起の良い天神様!?

天神櫓は、全国的にも珍しい寺社建築の正面扉(しとみど)を有する櫓です。久松氏の祖先神である天神(菅原道真)を祭ったので「天神櫓」と呼ばれ、また天守群の中に学問の神様があることから縁起が良いとされています。さらに松山城は勝山に建てられていることから、勝山城とも言われさらに縁起がいいとか!

松山城

多羅葉は隠密使用!?

葉の裏に硬い物で字を書くと葉が枯れても読め、はがきの起源となった植物です。もしかしたら隠密が使っていたのかも!?
野原櫓の付近で見つけることができます。

松山城

戸がなくなった門!?

松山城本丸入口にある「戸無門」は、敵を防備の要である筒井門へ誘いこむための戦略的な意味もあったのではないかと言われています。
むかし城の女中が町の男と恋をし、門限を過ぎて城に戻った罰としてその場で打ち首に。その後、夜ごとに「ぎいぎい」という扉の音がするようになり外してしまったという伝説も残っています。

松山城

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