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2012年8月〜2015年6月の約3年間「瀬戸内・松山食べ巡りプロジェクト」で、取材撮影をした編集部によるレポートです。
事業期間終了と共に運営変更に伴い、「瀬戸内・松山 しまめぐり」の事業では更新することはありませんので、ご了承いただきますようお願いします。

|文化・歴史

松山市にある松山八ヶ寺を遍路体験するには意味がある!

松山市は四国遍路発祥の地として深い関わりのある衛門三郎の里でもあり、それにまつわる多くの足跡があります。その足跡をたどってみましょう!

四国遍路の始祖 衛門三郎の里

四国遍路を生み出した衛門三郎伝説は、衛門三郎の里である松山市から生まれました。
伊予の国浮穴群荏原の郷の領主・強欲非道な衛門三郎の家に、みすぼらしい旅の僧侶が訪ねて一夜の宿を乞いますが、三郎は突きとばし僧の持つ鉄鉢が8つに割れます。その後、次々と三郎の子どもが死に、あの時の僧侶が弘法大師であったことに気付きます。弘法大師を追いかけ旅立ちますが、四国を20周しても会えず逆順の21周目で病に倒れます。死する前に大師に会え「来世は国司の家に生まれたい」という三郎の言葉に、大師は「衛門三郎再来」と書いた石を左手に握らせました。その翌年、河野息利の家に生まれた男の子の左手が開かず、安養寺住職が祈祷すると「衛門三郎再来」と書かれた小石を握っていました。その男の子が河野息万であり、衛門三郎の生まれ変わりといわれています。この小石は今の寺宝として残り、寺号を「石手寺」と改称。これが衛門三郎再来の説話です。石手寺境内入口には、正座をした衛門三郎の石像があります。

衛門三郎


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逆打ちはここから生まれた!

罪深さを悔いて弘法大師の後を追って旅出ち、最後に逆廻りで弘法大師に会い死す、これが遍路・逆打ち発祥と言われています。閏年に逆打ちをすると、弘法大師に会えるという伝説があります。
※大宝山 文殊院徳盛寺の絵

衛門三郎

納札の始まりは札始大師堂から

納札は参拝の証であり、名前や願い事などを記入し本堂と大師堂の2ヶ所に奉納します。その納札の始まりとも言われているお堂があります。
天長元年(824)弘法大師が松山市小村町の川の中州で露宿しようとしましたが、にわか雨で水が溢れ身の置き所がなくなりました。弘法大師は法力で、にわか造りの草庵を造り住んだという大師堂です。後に弘法大師を追いかけて旅に出た衛門三郎が一夜、大師自刻の尊像に懺悔し帰来を待ったと言われています。その時に衛門三郎は紙片に自分の名を記して堂に納めました。そのことからこの堂を札始大師堂と呼び、これが納札の始まりとも言われています。境内には「四国霊場遍路開祖衛門三郎札始大師堂」の石碑が立っています。
大師堂にはかつて通夜堂があり、春には茶の接待も行われていました。また大正時代まで夏の土用の入りには、大師堂に納められた納札を一枚ずつ小竹に挿んで田んぼの水口にさし、豊作を祈願していたそうです。

札始大師堂


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愛媛最古の遍路道しるべがある!

歩き遍路にとって目印となる遍路道標は、遍路道の要所に数多く立てられており、現在愛媛県内で確認されている最古の道標が松山市恵原町の土用部池堤防下にあります。第47番札所の八坂寺の山門を出てすぐ左を曲がり、水路に沿って小径を進みます。えばら池東側から北側の道をしばらく進み、右手へと分岐する道の堤防下に「へんろ道 貞享二年三月吉日」と書かれた古い自然の石があります。これが貞享二2年(1685)の道標であり、これは愛媛最古・四国で2番目に古いものとされています。四国最古の道標は高知県室戸市にある「貞享二年二月吉日」建立のものです。

愛媛最古の遍路道しるべ


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四国遍路と深い繋がりがある松山市の遍路を巡り、弘法大師と深い「縁」を結んでみるのもお遍路さんの醍醐味かもしれません。

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