2012年8月〜2015年6月の約3年間「瀬戸内・松山食べ巡りプロジェクト」で、取材撮影をした編集部によるレポートです。
事業期間終了と共に運営変更に伴い、「瀬戸内・松山 しまめぐり」の事業では更新することはありませんので、ご了承いただきますようお願いします。
四国霊場第47番札所 熊野山 妙見院 八坂寺
田園のゆるやかな坂の上に、四国八十八ヶ所の第47番札所 熊野山妙見院 八坂寺があります。
その歴史は古く修験道の開祖 役行者小角が600年代に開山、701年(大宝元年)に文武天皇の勅願寺として伊予の越智玉興公が七堂伽藍を創建。この時、大友山(大友城址)に8ヶ所の坂を切り開いて伽藍を創建したことから「八坂」という名前が付けられました。815年から滞在した弘法大師が荒廃していた寺を再興し、四国八十八ヶ所霊場に定めます。修験道の根本道場として栄え、12坊84末寺を持ち多くの僧兵を抱える大寺でしたが、天正年間の兵火のため伽藍は焼失し再興に至ります。
数段の石段を上がり、屋根のある山門をくぐります。山門には菊のご紋章があり、天皇の勅願寺であることがわかる。色彩豊かな天井画は、極楽浄土の絵でありその美しさに魅了されます。
山門をくぐると、右側に手水舎と納経所。左側には、松山市指定有形文化財の「宝篋印塔(ほうきょういんとう)」があります。呉越国の銭弘俶(せんこうしゅく)が、宝篋印心呪経などを銅塔に納めるために造ったといわれています。八坂寺の塔は高さ約2m、基部・塔身・笠・相輪からなり、鎌倉中期から造立されました。
そしてもう1つ、大師堂の横にも松山市指定有形文化財の「層塔」があります。朝鮮半島の影響を受けたもので、死者の菩提を弔ったものであす。高さ2.7mで鎌倉時代末期のものだと言われています。現在6重となっていますが、3・5など奇数に造られています。
本堂につづく石段をあがっていくと、下から10段目の左側に「救いの手」があります。お遍路さんが石段の上から転げ落ちた時に付いた「手跡」と言われ、その時に怪我がなかったことから「九難を去る救いの手」とされ、足や目の病に効験ある話が伝わります。
石段のあがり終わる左側に鐘楼、正面奥に本堂が建ちます。本堂右手には権現堂、十二社権現堂があり、左に大師堂があります。本尊は、恵心僧都(えしんそうず)作といわれる寄木造の「阿弥陀如来坐像(あみだにょらいざぞう)」です。像高84cm・重さ18kg、粒の粗い螺髪・低い肉髻・髪際のゆるい波形など鎌倉時代前期の手法や特徴が顕著で、当時の代表的な作品です。本尊は秘仏とされており開帳は50年に1度、次回の開帳は2034年です。
本堂左右入口から降りた地下室には、万体阿弥陀仏が安置されています。県ごとに並べられた砥部焼の仏像は、信者が奉納しており約8,000祀られています。
大師堂のお大師さまと結ばれている御手綱(みてずな)は、五鈷杵(ごこしょ)を触れる事によりお大師様と更に深いご縁で結ばれるそうです。
本堂と大師堂の間に閻魔堂があります。美しい浄土を描いた「極楽の途」と修羅道などを描いた「地獄の途」があり、地獄から入って極楽から出ると極楽浄土へ行けると言われています。今までの過ちを閻魔大王の前で悔い改める決意をし、不殺生・不偸盗・不妄語などの「十善戒」の教えを守ることを誓うという「極楽往生通行手形」があります。棺の中に1緒に納めると、極楽へ行くことができると言われています。
修験道場である八坂寺は、ますます栄えるという意味を持つ「いやさか不動尊」が祀られています。柴燈大護摩供火生三昧火渡り修行を毎年4月29日に開催。心を静めて1つの事に集中し、身体から智慧の炎を生じるお不動さまと一体となる修行です。八坂寺の裏にある修験道場の山として栄えた大友山(大堂山)は標高407mあり、忽那諸島も一望できて素晴らしい眺めです。
中興21代目の八坂善教(ぜんきょう)さんは、2012年に住職となります。高野山高校・大学を経て修行の道に進まれた8年間は、世俗を離れ人としての生き方や仏教の教えを学ばれた日々でした。修験道場である八坂寺の住職は、代々八坂家の世襲で守られています。八坂家の長男としてこの世に生を受け、自然とその道に進む中にもおそらく葛藤や重圧があったのではないでしょうか。しかし代々引き継がれてきた八坂家の精神は、善教さんに引き継がれまた子へと引き継がれていく。このようにして長い歴史を経てきた八坂寺は、多くの遍路を優しくも温かくも迎えてきたのです。
26歳の時に四国霊場八十八ヶ所を巡られた善教さんは、第88番目大窪寺の門前を目にしたときに「寂しいな」と涙が溢れた、とその時のことを話します。感動や名残惜しい・・・様々な35日間の想いが溢れたそうだ。お接待を受け「心」を感じた日々、それはお接待文化である四国ならではの特徴でしょう。親から子へ、子から孫へ・・・そのように引き継がれている接待の心は、今も残っているのです。(※写真提供:四国八十八ヶ所霊場)
難所と呼ばれる「遍路ころがし」を経て、松山に入った時に「ほっ」とする寺が続くこともあり「里寺」と呼ばれています。こころ穏やかなひと時を味わえるように、八坂寺には「通夜堂」があります。そこにある帳面には、様々なお遍路さんの想いが書かれているそうです。「思いを伝えたい。誰かに自分の気持ちを聞いてもらいたい」その思いは、帳面を通して伝わってくると善教さんは話します。
ある通夜堂に「時と金 かけて歩く 遍路路 この痛み この疲れこそ ありがたきかな」と書いてあったのを見て、「遍路というのは時間と金がかかる。歩き疲れ、体は痛む。しかしこの疲れこそ贅沢なことなんだなぁ」と善教さんは解釈したと言われていました。この解釈は人それぞれでしょうが、善教さんはご自分の遍路体験からそのように思われたのでしょう。
四国霊場開創1200年を迎えた今年、2014年5月9日に、総本山善通寺で大法要が執り行われました。記念事業の一貫として「お大師さまと歩む四国遍路」が2013年2月4日から行われ、5月9日の善通寺に到着し結願しました。
その事業を手がけられたのが八坂寺の善教さんらで、青年僧侶と先達らが延べ130人、月2回の全24回に渡り行われました。仏教の教えを心の中で練り上げていく「徒歩練行」は、ただ歩くのではなく修行なのです。事業の始まりの当初は話のはずむ中でのスタートとなりますが、そのうちただ無心に歩くようになりその列は乱れることなく進みました。その姿は見る人のこころに響き、訴えるものがあったといいます。同行二人の「木像の弘法大師」や護摩木などを交代で背負って歩いていきます。「先達さんにお遍路のこころを再認識してほしい」その善教さんらの想いは、幾度か繰り返される中で先達に伝わったという。僧侶の姿をもって伝えていく、教化です。(※写真提供:四国八十八ヶ所霊場)
弘法大師の教えは、誰もが「生きているままに仏に成れる」です。「悟りを求める強い心を持てば、私たちにも仏の力を受ける事ができる」その教えが、弘法大師の広められた真言密教です。「その教えに基づき伝えていく、それが住職である。形ではなくこころを表現し、そして口にすることで自分を戒める。」と話します。住職になられて数年、おそらく業務に追わる日々であったりと様々なことがあるのだろう。その中で企画した「お大師さまと歩む四国遍路」は、先達と共に得たものがあったのではないでしょうか。(※写真提供:四国八十八ヶ所霊場)
視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚の人間の持つ「五感」以外に、物事の本質を掴む「こころ」の働きを指す「六感」で物事を感じることが大切である、と善教さんは話す。目に見えるものが全てではなく、「こころ」で感じるものである。
生き様とは、その人の生き方のことである。人は環境や経験・出会いなど、様々なものに影響される。日々の修行とこころで感じる六感、それが善教さんの心髄なのかもしれない。
【四国霊場第47番札所 熊野山 妙見院 八坂寺】
住所:愛媛県松山市浄瑠璃町八坂773
TEL:089-963-0271
駐車場:50台(無料)
宿坊:無
宗派:真言宗醍醐派
本尊:阿弥陀如来
開基:役行者小角
創建:大宝元年(701)
真言:おん あみりた ていせい からうん