2012年8月〜2015年6月の約3年間「瀬戸内・松山食べ巡りプロジェクト」で、取材撮影をした編集部によるレポートです。
事業期間終了と共に運営変更に伴い、「瀬戸内・松山 しまめぐり」の事業では更新することはありませんので、ご了承いただきますようお願いします。
正岡子規の俳句を歌に・・・「子規のいる街シンポジウム」を開催
松山市出身の俳人・正岡子規の俳句が歌に・・・と、松山市子規記念博物館で「子規のいる街シンポジウム」が9月15日に開催されました。
2013年2月、響け!言霊“ことばのがっしょう”コンクールが開催された際に、「正岡子規に親しんでいるが、より親しみたい。歌にしたらより身近に感じられるのではないか」というアイデアが出たことをきっかけに、「ことばのちから」に取り組む松山市が主催。台風の影響が心配される中、約400人が参加されました。
松山市野志市長は、「松山市の路面電車・郊外電車・リムジンバスに、2000年と2010年に募集した勇気が出る言葉が書かれています。勇気づける言葉もあれば、反対に傷つける言葉がある。子規の後を生きている松山市民として、言葉を大切にしたい。そこで正岡子規の俳句を歌にしたら、より親しみが出るのではないかというアイデアを元に新井満さんにお願いしました。」と話されました。
講演では、竹田館長が約2万5000句以上ある子規の句から40句を厳選して紹介し、子規の魅力や人柄について説明。
正岡子規(1867~1902)は愛媛県松山市出身の俳人であり、松山藩の下級武士の長男として誕生。幼少の頃に父・常尚が死亡し、母・八重によって育てられました。外祖父・観山の私塾に通って漢書の素読を習い、1890年ごろから「子規」と号して句作を行います。1895年日清戦争により近衛師団つきの従軍記者として遼東半島に渡るが、上陸した二日後に下関条約や調印され帰国。その船中で吐血し重体に陥り、神戸病院に入院。須磨保養院で療養したのち松山に帰郷。愚陀佛庵(ぐだぶつあん)に病気療養中だった子規は、体調も随分よくなり散策します。その時に詠んだ句。
死の半日ほど前、紙を貼りつけた画板を妹の律に用意させ、そこへしたためた辞世の句。これらの句にちなみ、子規の忌日(9月19日)を糸瓜忌と呼びます。その一句「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」
糸瓜忌:http://sikihaku.lesp.co.jp/pdf/2013_hetimaki.pdf
子規は貧乏だったが、借金しても色紙一枚、短冊一枚売らなかったそうです。貧乏だけれども誇りがあり、守るべき“シン”がある人だったことが伺えます。
他にもこのような俳句がありました。
そして松山市の野志市長が選ばれた句
その後、作家の新井満さんとコラムニストの天野祐吉さん、松山市子規記念博物館館長の竹田美喜さんによる座談会が行われました。
「この街で」を手掛けられた新井さんは、万葉集や石川啄木も手掛けられています。
4500首以上の万葉集(和歌集)から、額田王・磐姫皇后 (いわのひめのおうきさき)・播磨娘子(はりまのおとめ)の選んだ5曲。テーマは「LOVE」、タイトルは「あー君まつと」を披露。
そして石川啄木の歌では、松山の山「城山」と「石手川」で松山バージョン「望郷」を披露。
新井さんは、「短歌はドラマで、俳句は写真のようなもの。俳句が独立しているものなので、何句か並べても水と油で上手く接着できない。ただ今回松山市に来て、松山市民のみなさんの想いがヒシヒシと伝わってきました。最大限を費やして子規の俳句に曲を作るプロジェクトに挑戦していきたいと思う。」と話されていました。
最後に「この街で」を皆さんで合唱し、シンポジウムは幕を降ろしました。
正岡子規の俳句の歌は、どの俳句で、どのようなテーマでどのような曲になるのか・・・とても楽しみです。
歌が誕生した時には、瀬戸内・松山食べ巡りプロジェクトでお伝えしていきます。
ことばのちから:http://www.kotobanochikara.net/index.html
松山市子規記念博物館:http://sikihaku.lesp.co.jp/