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2012年8月〜2015年6月の約3年間「瀬戸内・松山食べ巡りプロジェクト」で、取材撮影をした編集部によるレポートです。
事業期間終了と共に運営変更に伴い、「瀬戸内・松山 しまめぐり」の事業では更新することはありませんので、ご了承いただきますようお願いします。

|その他

歴史的建造物に脈々と受け継がれてきた文化の息吹が今も生きる萬翠荘

萬翠荘(ばんすいそう)は、旧松山藩主の子孫である久松定謨伯爵が別邸として建てたものです。
純フランス様式の建物は当時最高の社交場として各界名士が集まり、皇族方がご来県の際必ず立ち寄るという地方都市松山の中心的役割を担う建物でした。
また、第二次世界大戦の戦禍を免れたことで建築当時のままを残す貴重な建物となり昭和60年(1985)に愛媛県指定有形文化財となり、さらに、平成23年(2011)に萬翠荘本館、管理人舎の2棟が国重要文化財に指定されました。
外観 1 

ここで、久松定謨伯爵とは一体どのような人であったのでしょうか、
わかりやすい事例として東京都中央区立久松小学校のエピソードがあります。まず、校名の久松についてこれまでは地域的な理由からだという説が有力でしたが、近年「東京府志科」などの資料により、久松伯爵の名前からであるとされています。またその関係性について、明治維新後の財政難から初等教育成立時期には華族からの援助が大きく、久松家からも寄付一金千圓(今の価値で数千万円)を筆頭として学校が設立されたのです。さらに、久松家は日本橋浜町の「長屋」を寮として開放し、学生の事情により学資を給付していたのです。
その後、明治16年(1883)久松家の出資により創立された常磐会の第一期生として正岡子規が入寮していたり、定謨本人も仏サンシール陸軍士官学校へ留学し、時代の先駆者として国の発展の為に人力を注いでいました。
なお、この時の家臣にあたる秋山好古を同行し、騎兵隊戦術の習得により後の日本陸軍騎兵の父と言われるようになりました。
マントルピース 3 
貴賓室 
では、これから萬翠荘のみどころについてお話しましょう。
やはり、一番はステンドグラスについて触れないわけにはいきません。
入ってすぐの踊り場にある大きなステンドグラスは、大胆でありながら複雑な色合いのグラデーションで構成されていて脅かされます。
この描かれている波と帆船は定謨が明治20年に仏の陸軍士官学校に入校、あるいは明治35年に仏公使館附武官就任に渡った海原を思い起こさせるものとなっています。
また、各部屋上部にある小さな間仕切りのステンドグラスは、アールヌーボー調の様々なカタチと模様で同じものが1つもないので見る者を飽きさせません。
ステンドグラス 1 
ステンドグラス 2 
ステンドグラス 3 
ステンドグラス 4 
ベルギー製の大鏡とマントルピース。当時ガラスを平面にする技術はベルギーにしかありませんでした。その大鏡が当時のまま保存されています。
この時代の鏡は人の姿形を写すためのものではなく、照明を反射させてより明るく、広く見せる為のもので各部屋に設置されています。
またマントルピースも部屋ごとに異なるデザインで飽きさせません。暖炉は薪ではなくガス暖房で当時の松山で初めて設置された珍しいものでした。
マントルピース 1 
マントルピース 2 
南洋から取り寄せた貴重なチーク材で作られた手摺りの彫刻入りの内装材。
踊り場 
シャンデリアの一部は水晶で作られておりやはり大変珍しいものです。
建物は、ネオ・ルネッサンスと呼ばれる格調高い建築物で、縦横の構成比がすべて「1:1.6」の黄金比でまとめられています。
(※黄金比:ギリシャ時代から最も調和の採れた比率で、長方形を一番美しく見せる比率のこと)
また、西洋建築は通常左右対称が普通なんですが、建築家「木子七郎」は日本人の美意識からあえてアンバランスな構成にし、その結果、非常に美しい西洋建築となっています。
松山城のふもとで数々の歴史と文化の推移をじっと見据えてきた萬翠荘は、愛媛松山の宝物であると同時に、日本人の心を見失いがちになる現代社会において拠り所といえるかもしれません。
外観 3 
廊下 
屋根 
外観 4 
最後に、イベントについてご案内します。
文化的で歴史的にも価値の高い施設では、個展・コンサート・イベントなどが幅広く開催されています。
もちろん貸館もできますので、ぜひ利用してみてはどうでしょうか?
庭 
お土産 

【萬翠荘】
住所:愛媛県松山市一番町3-3-7
案内電話番号:089-921-3711
開館時間:9時~18時(イベント等により時間変更あり)
萬翠荘:http://www.bansuisou.org/

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