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2012年8月〜2015年6月の約3年間「瀬戸内・松山食べ巡りプロジェクト」で、取材撮影をした編集部によるレポートです。
事業期間終了と共に運営変更に伴い、「瀬戸内・松山 しまめぐり」の事業では更新することはありませんので、ご了承いただきますようお願いします。

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松山・道後の歴史の遷移と文化の源泉

松山市立子規記念博物館で「道後の湯—松山文化の厳選—」平成26年度特別展が、2014年10月18日から始まった。松山市が「道後温泉本館改築120周年」を記念し、道後温泉と松山の文化史を物語る資料を展示、人間正岡子規を生み出した土壌を紹介するというものである。
展示内容は3部構成になっており、Ⅰ.道後温泉の歴史・Ⅱ.松山文化の大河−温泉とともに−・Ⅲ.子規と道後・松山というもので、道後温泉を基軸とした歴史を重要な資料をみながら現代までを知ることができる。

道後の湯―松山文化の源泉―

江戸時代、道後温泉がどれほどの知名度があったのか、面白い資料がある。「諸國温泉効能鑑(しょこくおんせんこうのうかがみ)」、相撲の番付表で温泉地を番付ているものだ。日本を東西に分類し、西日本の大関「有馬温泉」、関脇「城崎温泉」、小結「道後温泉」になっている。ちなみに東の大関は「草津温泉」

道後の湯―松山文化の源泉―

道後の湯―松山文化の源泉―

また展示物の中に、「道後温泉絵図(久松定智氏所蔵)」や「道後温泉絵図(子規記念博物館所蔵)」がある。これらに記載されている絵図は、道後温泉本館とそこまでのL字に曲がる道が描かれ、その道沿いにある建物は湯治宿や土産物屋で現在の道後商店街である。また玉の石や松山藩主が道後を利用する際の別邸、奥には牛湯・馬湯があり、このように家畜の為にも利用できるのが珍しく、文字通り自然の恵みを身分・性別・年齢等で分ける事がなかった。(場所の区別はあったが利用されていた。)また、後者の絵図には、湯神社や伊佐爾波神社など広域に描かれている。

道後の湯―松山文化の源泉―

江戸時代には、すでにお遍路さんが石手寺も近いことから数多く立ち寄っていた。四国遍路の定着も道後湯之町は湯治場として発展し、出身地や立場・身分などを越えて多くの人が利用したとされる。お遍路さんの利用に限り三日間は無料で泊めるという決まりがあったといわれ、お接待文化はすでにその頃から育成されていたのであろう。

道後の湯―松山文化の源泉―

道後の湯―松山文化の源泉―

松山で生まれた正岡子規にとって道後は身近な場所であり、親戚や友人達と道後を訪れその際に写真を撮ったものが展示されている。子規がまだちょんまげを結っている写真や親戚と一緒に撮影しているもの等、貴重な写真も閲覧できる。また道後温泉は子規が幼少の頃から親しまれてきた温浴施設で、癒し・観光・遊び場として多くの人に利用されてきた憩いの場であった。

道後の湯―松山文化の源泉―

道後温泉は時代によって様々に移り変わり、その時代毎の風情が生み出されて来た。その風情に引きつけられた数多くの文化人達が訪れ、道後温泉を題材にした創作活動を行った。そのことは道後の文化ひいては松山の文化が生まれる苗床となり、文化の源と言っても過言ではない。

道後の湯―松山文化の源泉―

道後の湯―松山文化の源泉―

明治28年、帰郷中の母にあてた書簡には「道後に滞在のおり1日は親戚周りでもして、もう1日は道後の湯で過ごされてはどうか」という文面があり、当時から松山人にとって道後は身近で親しみやすい保養地であったことを思わせる。
明治に入り道後湯の町長である伊佐庭如矢により、本館が改築されて現在の姿の三層楼となった。これまでの大きな歴史を抱えた道後温泉は、明治28年の本館大改築は予想以上に大きな仕事だったに違いない。その大改築を経て後年、道後鉄道を設立し一番町〜道後・道後〜三津口(現:萱町6丁目付近)を走らせ多くの利用者を増やすことに専念し、近代観光地としての基礎を形つくった如矢の功績はいつまでも語り続けられるであろう。

道後の湯―松山文化の源泉―

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